ART


 

<スタートにあたって>

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「どんな絵でもそれなりの額に収まれば立派な芸術作品になる」といった意味合いのことを耳にしたことがある。

そう言えば、わたし自身の稚拙な水彩画も、確かに額に入れてみると格調高く見えるから不思議である。(そう思うのは自分だけかもしれないが...)

だが、皮肉にもこのワンフレーズが、奥深い芸術の本質を的確に表現しているように思えるのだ。

額という引き立て役によって、作品はあたかも芸術的価値を高めたかのように、わたしたち素人は感じてしまう。
そのこと自体は決して悪いこととは思わないが、そんな錯覚が専門家の世界でもあったという事実。

驚きであり、極めて遺憾である。
まだ記憶に新しい「日展の審査問題」がそれである。(最近、2020年東京オリンピックのエンブレ問題という極めて類似のできごとが世間を騒がせているが、これについては後々に)

だが、先ず前述のわたしの文章の一部(錯覚の部分)が表現として不十分で理解しづらかったことをお詫びしておきたい。
実はこの錯覚の部分は故意に行われた錯覚と言うべきだったのだ。

つまり一部の権威ある審査員の圧力がまさに「額」という引き立て役になって、特定の応募作品の評価を高め、入選に導くという公平性を欠く審査が日展のコンペのなかで行われたのである。
これは額を付けた作品と額のない作品が、同じ土俵で相撲を取ったようなもので、公募展としてはあってはならない行為である。

そもそも、芸術、なかでも絵画の世界では、アーチストは錯覚を意図的に採り入れることはよくあることだという。
例えば、有名な「ルビンの壺」などはその典型例だ。
考案したエドガー・ルビンは心理学者だったが、人間の感覚、記憶などを扱う認知心理学の研究の一環からこの作品は考案されたという。

ルビンの壺
Rubin’vase

この絵は人間の錯覚を利用したトリックアート(騙し絵)の代表的な作品としてアートシーンのなかであまりに有名だが、日展のように作品審査のなかに錯覚要素を持ち込むとは甚だ呆れてしまう。
このようなことがあると、芸術作品の優劣ってどういうことだろう、そもそも芸術てなんだろうと改めて思い悩む。

だからといって、このページで芸術論を語るなど、そんな大それた考えは毛頭ないが、大好きな芸術だから、挫けず、見捨てず見守って行きたい。それこそド素人の目で呟いていきたいと思う。