本の紹介:フェルメールになれなかった男 ― 20世紀最大の贋作事件 ―


フェルメールになれなかった男
20世紀最大の贋作事件

フランク・ウイン 著
小林賴子・池田みゆき 訳

 

フェルメールになれなかった男 20世紀最大の贋作事件 フランク・ウイン 著 小林賴子・池田みゆき 訳
フェルメールになれなかった男
20世紀最大の贋作事件
フランク・ウイン 著
小林賴子・池田みゆき 訳

フェルメールになれなかった男
20世紀最大の贋作事件
購入したのは2012年4月20日
本によれば2012年3月14日に第一刷発行とあるから
発売まもなく購入したことになる。
だが、読んだのは2015年の2月に入ってから。
それまでどうしていたのか?
本自体は本棚に整然と収まっていた。
わたしとしては只々読むのをサボっていたに過ぎない。
(忘れていたのでは決してないが)
こうしたことは私にとっては珍しいことではない。
本屋で興味のある本、目新しい本を見つけると、取り敢えず購入する。
予算の許す限りではあるが・・・

以前、面白そうな本を見つけながら、まだ自宅には読んでいない本があるからと、その時は買わずにおいたところ、以後その本を買うことができなかった。。
正直なところ、「そんな本があったな」という漠然とした記憶はあっても、書籍名すら忘れてしまっていたのだから致し方ない。
「釣り落とした魚は大きい」のたとえ通り、胸のつかえが残り、しばらくはショックだったのは言うまでもない。
そんな苦い経験を何度か重ね、それ以来買わないまでも、題名、著者、出版社くらいはメモすることにしている。

話は横道に逸れたが、文字通り本題の「フェルメールになれなかった男」の本の話に戻ろう。
フェルメールになれなかった男とは、20世紀で最も巧妙とされる贋作者の1人であるハン・ファン・メーヘレンのことである。
この男はオランダの画家・画商で、自身と同じオランダの画家ヨハネス・フェルメールの贋作を残したことで特に有名になった。
戦時中にフェルメールの作品として「姦通の女」という作品を当時のドイツ政権であるナチスに売却したことから、「ナチスを騙した男」としても有名である。

 

メーヘレン作_姦通の女
メーヘレン作_姦通の女

著者のフランク・ウインは1960年生まれのアイルランド人。
ジャーナリストでありながら、翻訳も手懸けいくつかの受賞歴もある。
そんな彼がこの本を書こうと思った動機ないしは惹きつけたものは何だったのか?
それは如何にして贋作を創作したのかといった「贋作の手法」、
あるいは如何にして当時の美術評論家の目や鑑定技術を潜り抜けてきたかという単なる興味や関心からではない。

 

著者のフランク・ウイン
著者のフランク・ウイン

結論から言えば、それは「何故に?」という犯罪心理の探求に他ならない。
現に、著者ウインはこの作品を手掛けるに当って、ピカソやマティスの贋作を多く手掛けたことで知られるヒェールト・ヤン・ヤンセンという現在の贋作者にインタビューしているのだ。
その際、彼が行なったいくつかの質問のなかに、この「何故?」が含まれている。

当然のこととして、そこに複数の贋作者がいれば、その人数分の様々な動機があっておかしくない。
歴史上の偉大な画家に対する挑戦であったり、復讐であったり、あるいは有名画家の作品総目録に自分の贋作が掲載されることでの優越感を味わいたいなど。
いわゆる「騙しの快感」というもので、騙す相手が大物であればあるほど、その快感も大きいという性格のものだ。

ただ、そうした理由は単なる後付の論理ではないかとわたしは思う。
自身の行為を正当化するとまでは言わないが、それに近いものがあったように思う。
しかし、彼らが贋作を創作するという行為は現在進行形のなかでは、単純に「貪欲なまでの富への願望」だったとわたしは思う。
何故なら、彼ら贋作者にはどんなに優れた作品を制作しても、どんなに権威ある美術評論家を騙しきったとしても、
その性格上、前面(桧舞台)に立てないというジレンマが常につきまとっているからだ。
名乗り出て華やかな表舞台に出るには自分自身を暴露しなければならないという葛藤。
それこそ内なる闘いの日々であったと思う。
そんな時、自分自身を満足させ、心を癒してくれたのは誰もが羨むリッチな生活をおくること、いわゆる「富の力」だったはずである。

歴史を遡れば、数限りない贋作事件があったという。
その一つ一つに多種多様な人間の計り知れない心理を結びつけ、
物語性やロマンを抱くことはわたしたちの常套な行為であり、ある意味楽しみなのかも知れない。
ただ、夢のないことを言うようだが、この「贋作行為」の中には血生臭い「富への欲求」が究極の動機としてあるのである。
贋作技術を磨くことは、自身の画家としての技量を磨くためとか、本物に近づきたいといった理由付けが本文中で見受けられるが、
そんな純粋なものではなく、完全犯罪を成立させるための悪意性でしかなかった。
その意味で「贋作事件」は他の犯罪事件と何ら変わりない人間の利己的な行為に他ならないとわたしは思う。

この本の主人公である贋作者ハン・ファン・メーヘレンは、こうした人物がそうであるように、幼いころから絵の才能に恵まれ、
正規の美術教育を受ける前から、コンクール等で受賞するほどの天才ぶりを発揮していた。
ただ、こうした人物と歴史に名を残す偉大な巨匠との違いが何かと考えたとき、
まず思いつくのがその作者のオリジナリティーが作品に反映されているかどうかである。

オリジナリティーの欠如は、こと美術界に於いては致命傷である。
このオリジナリティーはどんなに努力しても身につくものではなく、ある種の天分である。
彼らはある時点でそのことを悟り、誰かに成りすますことに徹したのである。
ただ、オリジナリティーは天分であるが故に、それぞれの個人に備わったものでもある。
彼らはそのことを追求せず、努力を惜しんで安易な方向を選択したに過ぎないのである。

ハン・ファン・メーヘレンの贋作としての最高傑作「エマオの食事」は、彼自身長期にわたるフェルメール研究と、
贋作と見破られないための鑑定対策、そして十分な制作期間をかけて完成させた。
言わば、この1作品で富と名声を獲得したといっても過言ではないほどの思い入れのある作品である。
ただ、これ以降の作品には彼はそれほどの努力をしなかったと言う。
それは、「エマオの食事」のお墨付きで、それ以降は専門家をはじめ人々の鑑識眼は厳しさを欠いていたからである。

 

メーヘレン作_エマオの食事
メーヘレン作_エマオの食事

本文中にもあるように「・・・人は、作品の出来に惹かれて金を出すわけではなく、その画家の名前が目当てで絵を購入するわけ・・・」という一節、
前述のヤンセンの言葉だが、まさにこの一節が贋作のすべてを物語っているよう思える。

フェルメールの作品があまりに少なかったこと、それによりそれまでの学説、多くの画家が辿る画風の推移の中で、
この時代にこうした作品があって当然であると考えられ、待望されていたことなども意図的に利用し、
メーヘレンは匠に作品を世に出していったのである。
本書はこうした贋作者の思惑、具体的な贋作テクニック、また当時の科学技術による鑑定技術、さらにその上をゆくメーヘレンの研究開発などが紹介されており、
絵画愛好家にとってはテンコ盛りの内容である。

最後に、序説の中で触れられている一節がとても印象的で気になったので紹介しておきたい。
それはテオドール・ルソーの言葉で、
「われわれはみな、見抜かれてしまう出来の悪い贋作についてしか語れないということを知っておくべきだろう。
出来のよい贋作はいまなお壁に掛かっているのだから」