憧れの図書館とは Part 2

この間、図書館の記事を書くにあたり、図書館に関する本や雑誌を読み、あるいはネット等で調べ物をする上で、図書館にまつわる意外な事柄を知ることができました。

例えば、普段なら視界に入らないような本、一例として「情報基盤としての図書館(根本彰 著 勁草書房)」、これは本来、図書館司書を目指している人が読むような本だと思いますが、読む機会に恵まれました。

また、ここ何年か若い人たちに人気の「図書館戦争」シリーズ。
これは出版数も膨大で流石に読んだ訳ではありませんが、メディア全般に対する権力者側の弾圧的な対応や「表現の自由」の問題と言ったかなり難しい題材を扱っているアニメであり映画だということが分かり、その概要が掴めただけでも勉強になりました。

library book
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活字離れや電子書籍の台頭で、紙ベースの本が危ういなどと叫ばれて久しいですが、こうしてみると、依然として図書館や本への関心が根強いことがわかり一安心です。

ただ、この調べ物をしている中で、懸念すべき問題もいくつかありました。
それは、前述の「図書館戦争」でも中心的テーマになっている「図書館の自由に関する宣言」という実際の条文の存在と、昨今、一部の大学図書館や「ツタヤ図書館」等で実施され始めた「図書館内での会話OK」のルールに関してです。この会話OKルールは現在は特定の図書館で試行実施されていますが、今後は多くの図書館に波及してゆくことが予想されます。どんなに古臭い考え方と言われようと、わたし自身としては、図書館に会話、おしゃべりは相応しくないと思います。

こうしたルールができた背景、経過について詳しいことはわかりませんが、各自治体の財政難から利用者が少ない図書館は閉館の可能性ありという危機感から始まったとしたら、個人的には納得できません。
(現に、神奈川県の県立図書館では数年前にこの理由で閉館云々が囁かれましたから。)

公共事業の強みは、民間のように収益のことを第一に考えず、思い切った企画運営ができるところだと思います。その意味からすると、利用者が少ないからといって閉館では民間運営と何らかわりません。

以前取り上げた佐賀県武雄市のツタヤ図書館の館長さんのコメントに「館が新しくなって、 今まで以上にいろんな人がそれぞれの居場所を求めてやってくるようになった(2013/10/05 3:30 日 本経済新聞 電子版より抜粋)」というのがありましたが、このコメント内容は非常に気になるところです。

このコメントでは、図書館、読書など直接本に関わりのない人たちでも「入館してもらえればそれで良し」という打算的印象を受け、いわゆる数字合わせに思えます。図書館が本来目指している主旨・目的に合致した人たちが集ってはじめて、真の活性化といえるのではないでしょうか。

飲食OK、会話OKなど、すべては閉館されないための苦肉の策、妥協案に思えてなりません。飲食OK、会話OKで人的交流、情報共有を図りたいのであれば、図書館よりももっと相応しい施設があるはずです。いったい、前述の「図書館の自由に関する宣言」はどこへ行ってしまったのでしょうか。

そうならない為にも、公共図書館は最後の聖域にならねばいけないと思います。特殊な専門書やマイナーな書籍もできるだけ保管管理し備えるという拘りの姿勢と、利用者の人数に左右されないのびのびとした運営にこそ、公共図書館としての大いなる役割があり、「情報基盤としての図書館」と呼ぶに相応しいのだと思います。
自由な気風の中に「おしゃべりはダメ」というスパイスを効かせることは今の世の中には必要なことのように思えます。そうしたある種、神社仏閣や教会のような静粛にすべき場所、ケジメをつける場があっても良いではないでしょうか。

行列ができるような図書館は大袈裟かもしれませんが、これからの図書館がその種の図書館を目指しているとしたら、「図書館の自由に関する宣言」は到底守られることはないでしょうし、本末転倒のように思えます。

前回の記事で最後に述べた「行列ができるような図書館には通いたくない」というわたし自身のコメントは、以上のような理由から発せられています。

財政が厳しいからと、入館者数が少ない、利用頻度が思わしくない図書館は閉館という考えはあまりに短絡的です。ほんの一例ですが、文科省の大学への補助金を見直したり、図書館内の正規職員に代わるアルバイトやボランティアの積極的な活用を考えるなど、閉館を決断する以前に、経費を減らす方向での検討の余地はいくらでもあるように思うのですが...

そうした提案をすると、ルールを分かっていないとか、予算の枠組みがどうのこうのといった反論が目に浮かびますが、単なる図書館の問題ではなく、もっと大きな枠の中で議論いただきたいものです。